IDA Session Records

井田 昌之の日々の記録。自己紹介等。

Archive for the ‘教育’ Category

切手収集がその原点(子供の頃その2)

客間の本棚を眺めていて、大昔の切手帳が2冊あった。50年くらい開いてなかっただろうとおもう。開いてみると昔をだんだんと思い出した。そして、整理が不十分なことに気がついた。もう少しなんとかしておこう。それで、正味6時間くらい格闘した。終わってみて勘定をすると、101カ国、といっても今はもう無くなった国とか地域とかあるから正確には切手を発行できる当時の行政区分ということになる、の約1500枚の切手がそこにあった。

思い出す範囲では、小学校3年生から5年生くらいまでではないか。当時の小学校では結構はやっていたと思う。普通は記念スタンプ付きの切手シートや年賀切手などの日本国内の切手を集めることのはず。私も、思い出してみて、今は開けることが困難な引き出しの中にそうしたコレクションが別にしまわれているのも思い出した。それは別の話だ。切手収集についての雑誌などがあって、見返り美人は今いくら、とかそういった価格をみながら、購入したり交換したり、そうしたことをしている人たちもいた。しかし、わが友人たちはそういうことはほとんどしなかった。

叔父が海外を対象とした保険関係の会社に勤務していたので、ゴミ箱往きになるそうした封筒の切手をとっておいてもらい、それを定期的にもらいに行って、封筒から自分ではがし、それを切手帳に入れる。なぜかやはり海外の切手を収集している・できる友達が複数いて、みせあいっこをしたり、交換したりして遊んでいた。学校ではそれはできないので、放課後、家に帰ってから友達の家に行って遊ぶことになる。私立の学校なので、それは簡単ではない。なので、自転車をねだって買ってもらって、それで、互いに訪問をした。5キロやそこらの距離は走った。なので、環七ができたころとか、目黒通りの拡幅時の情景とか、都立大学駅近辺の東横線の踏切とか、今でも目をつむれば思い出す。圧巻は、柿の木坂の交差点の真ん中に最後まで残っていた民家。今の目黒通りと環七の交差点の「中」に、一軒の民家があった。目黒区の地図を買い、それをみながらあちこちと自転車を走らせた。

地球儀をねだった買ってもらった。それは、切手が発行された国はどこなのか探すためだった。南米では、なぜかボリビアの切手が一番多かった。地球儀を見てはじめて、地球の構造と国の位置関係がわかった。父と国や都市のなまえをクイズにしてそれを地球儀上であてるという遊びをよくやった。アフリカにある多数の国。最初は植民地が結構あった。地球儀はその意味でアフリカは不正確だと知った。それで、地図帳を買ってもらった。それでも国がどんどんかわる。

アジアでは、なんとそのころでもベトナムの切手がはいっていたのを発見しおどろいた。手元にある切手の中で一番かみしつが悪いのは韓国の切手。また、琉球郵便の切手もある。通貨はドル・セント。オーストラリアの切手にはProduce Foodと大きく書かれたものもある。

どうしても国名がわからない切手が多数あった。NORGEとか。今回の整理でもわからないのがあった。家内にGoogleで引いてもらった。いろんな大人に聞いて回ったのを思い出す。

振り返ってみると、この切手収集は、いろんなことの原点だった。世界への興味、情報の整理にこつこつと机に向かう、自転車であちこちとまわる、そして大人にわからないことをきく。アルファベットにもこれで慣れた。性格形成にも影響した。

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Written by masa-ida

8月 8th, 2013 at 11:00 am

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子供の頃

幼稚園、小学校の時代、これはそれぞれ自分では選択がむずかしい、あるいはできない、が、その人の一生の基本的な歩き方がきまるんだなぁと思う。ニューヨークで生活している孫が3週間ほど日本の小学校に行くことになった。それを受け入れてくれるシステムが東京にはあるのにびっくり。区役所にも今の時期、つぎつぎとそんな感じの親、保護者が来て手続き、申し込みに来ている。どんどん流れている。小学校に行ったら、今年は12名。心配するなと副校長の談。下の子はあまり日本語ができないと思うので、心配だったが、今日はじめて登校して、先生もクラスの子供たちも大歓迎し、自然になじんでいるようで、大安心。時代はかわったとおもう。

私が小さいとき、幼稚園、小学校とカトリックの学校だった。それは今かんがえてみて、亡くなった母が、私が粗暴でおちつかず、暴れん坊だった(らしい)ので、心をいためて、カトリックの環境にほうりこんだというのが真相だろうと今は思っている。60年近く前の話になるわけだ。

先生の半分はイタリア人で片言日本語、イタリアから来たシスターの先生たちは、自分の部屋と教室との間の往復だけをしていたような人生。いろんな子が居た。北朝鮮へ帰る最後の船の子もいた。彼は2年生か何かの時に喜び勇んで転校した、はず。米国人とのハーフも居た、中国、韓国の政府関係の特別な駐在の子供たちも居た。今考えると、それぞれの家庭もしくは育った環境は千差万別、かつ、あまり人に言えないような特別な事情もあったんだろうなぁ、と推理できる子もいた。学校ってそんなもんだと思ってた。英語の授業もあった。クリスマスには毎年英語のクリスマスソングを覚え、歌い、ページェントに出演した。ほとんどすべては日本語だったが、英語は自然に覚え、必須の道具だと結論した。イタリー人も、中国人も、韓国人も英語と身振り手振りで話をするしかない、というところからスタートするわけだから。

高学年の時の担任の先生は、しきりに、いわゆる進学校に行って、東大をめざせ、といった。何度も家にもきた。しかし両親は首をたてに振らなかった。そのコースをとっていたら、きっと官僚になって、国の仕事をやっていただろうとおもう。けれども、多少そんな面もある仕事を今もしていることになる。

人間の基本的な能力の違いは子供の頃は敏感に、すっとわかる。特に、いわゆるアフリカンアメリカンの父親を持つ子供。筋肉の造りが違う!これを毎年運動会のときにみせつけられ、すごい!とみなあこがれた。半周近く遅れてスタートしてバトンを受けても、みるみる差を縮める。足ってあんなに速く回転するんだ!ゴールで追いつきはしなくとも競走は大接戦になる。我々のヒーローだ。かとおもえば、不幸なことに同じような境遇の子が、18で免許をとって自動車で走り回り、あげく、ダンプの腹につっこんで亡くなったのがいた。

自分の能力を高めて、活かせ、人のためにつくせ、世界のために努力しろ、と習った。それが私の人生の基本になることになる。

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Written by masa-ida

6月 26th, 2013 at 10:52 am

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