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プリーズタイクケア
ニュージーランドの地震とその救助のために活動されている人たちの様子がテレビで報道されている。その中で、現地のひとの発言の中に「プリーズタイクケア」を聞いた。はじめて学習をする者がどんなことに触れるのかは、どんな分野の勉強で大変重要である。特に語学の勉強をする場合に、まっすぐ自信をもって実際の会話に役立てるには、その実際の会話をする相手と話し合い、時には文句を言いあったり、時には感動しあったり、そういった瞬間を多数持つことが重要だと思っている。
「英会話を勉強するのに、ニュージーランドは治安も安全で、とてもよい環境なのです」というのはちょっとどうかなと思う。「ニュージーランドの英語」を勉強するには良いが、「他の国の英語」を勉強するには、その次にまっているハードルがなおもある。英国での英語は、すべてのことばを聞きとれても米国人にはなにをいっているのかわからないこともある。私の友人のオーストラリア人が志をもって米国西海岸へ渡った。スタンフォードの先生になり、西海岸での起業に参加し、何年もしたあとに、それらの内容的な功績から東海岸へ招かれる。研究の世界では大きな地位につくようになる。あるとき彼は食事をしながら私に言った。「言葉のハンディは大きいね。私にはアメリカ人の言葉がよくわからないことがある。みんなも私の発音をバカにすることがある。」妙に共有できた。オーストラリア弁も日本弁もそうはかわりはないのだ。だから、皮肉なことにニュージーランドでの英語の勉強が成功してペラペラになったとしても、他の国へ行けば、そのペラペラになったことがそのまま役に立つわけではない。場合によってはハンディになることもある。
ふり返って見て、過去の学生たちを見たとき、一緒にアメリカで行動をしたものたちの中から、自立してその後もアメリカで暮らす、あるいはアメリカとのやりとりで暮らす者が出ている気がする。橋渡しをする仕事はやっぱり教育の中で大きな仕事なのかもしれない。
人はなんのために散歩をするのか
ようやくカンヅメになった会議も終わり、昨日は3時すぎから時間ができた。なにをしようか?無意識に歩こうと思った。ホテルからあるいて1時間程度の距離と思われるレブロンの町にショッピングセンタがあることを聞いておいたので、海岸にそった道を水だけはわすれないようにして歩き始めた。南半球の夏の日差しはそれほど強い分けではないが、温度計を見れば、やはり31度になっている。
歩きながらまず考えたこと、なぜ私は歩いているんだろう?ショッピングセンタに行くということが目的であれば、タクシーに乗った方がよっぽど合理的である。健康増進、それもあるだろう。でも、歩きながら見えてくる景色はまた違うものがある。そこにいる人たちの息遣いが伝わってくる、いろいろな考えも浮かんでくる。また、死に向かって毎日タイマのカウントダウンをしているというべき人間の歩みのなかで、もっともぜいたくなのは、ゆっくりと時間を使うことであろう。歩くというのはこれらを一度にやっていることになる。最初にしばし足をとめたのは、ビーチバレーのフィールドで、手をつかわないバレーボールをやっているひとたちの動きにだ。頭で、胸で、そして足でボールをうまくコントロールしている。なかなかなものだ。しばらく見とれてしまった。この海岸はずっと先にはイパネマの海岸へ砂浜が一直線につながっている。きれいなものだ。不思議な形をした岩がいくつも陸にも海にもある。長女をそだてたころに茅ヶ崎の海岸のそばに住んでいた。烏帽子岩をみながら、乳母車を押し、そして論文の構想を練っていた。そんな生活がなつかしい。ここには似た景色がある。リオデジャネイロでの一コマである。