IDA Session Records

井田 昌之の日々の記録。自己紹介等。

科学する心+アメリカのココロ

少なくとも10年前、おそらく20年近く前に、深夜の映画劇場で、「12人の怒れる男」(字幕版)を見たことを、その時、思い出した。当時、アメリカとは何かというは現実的な仕事上の課題でもあったので、そういう視点でじっと見たことを思い出した。そもそも陪審制で評決するということは、みんながどう思うかで人の運命を決めることである。そんな判断を素人ができるのかどうか疑問があった、しかも多数の人間が同じ判断に至ることなどがありうるのか。そこには人種のルツボとしてのアメリカが浮かび上がっていた。英語のいろいろななまりが演じられ、せりふを聞くだけでその人の背景が推理された。アメリカ生まれの人間と移民の性格の違いが対比された。肌の色、そして、育った環境の違い、きちっとしたスーツを身にまとったリッチな人間、都会的人間の姿、そしてチンピラまがいの若者、いろいろな人間がアメリカを構成していることを見せてくれる。オープンソーシングによって真理にせまるということの本質でもある。あえて民主主義とはいわないでおこう。

昨晩、シアターコクーンで「12人の怒れる男」を見た。中井貴一など12名が登場し、陪審員の合議をする部屋を舞台設定とし、それを囲むようにベンチ席が設けられている。萬長さんのはからいで椅子席の最前列をもらえたので、すわりごこちもよかったし、劇もよく見れた。現在日本で始まった裁判員制度の存在により、この劇の視点は日本人にとって現実的な身近なものとなった。明日にも私もあそこに座るかもしれない、という見方が意味を持つようになった。

中井貴一が演じる陪審員が、被告が無罪であることを証明するのではなく、被告を有罪にする前にもうちょっと話し合って疑問を解決しようと話し、順に論理を展開する。決して急がない。誰もが本心から理解できる事実というものを解明し、共有しようとする。一方、西岡徳馬が演じる陪審員はストレートに自分の信じている小さな世界からの感覚的判断でしゃにむに生きるアメリカ人を象徴しているかのようだ。辻萬長はさすがに声が通るなぁという個人的な感想もあるが、彼の演じる陪審員は株の値動きを新聞を見ながらじっと冷静に考える経済人、しかしこうしたことへの判断は保守的、というところ。中井貴一の語ること、語り方、論理の展開、これらは科学する心として学生に説いていることに通じていると思った。そして、多くの学生は自分の狭い理解と判断力にしがみつく。前提をちゃんとしたものに置きなおすとその後の展開は先まですっと見えてくることが多い。これをどうやって教えるかだ。自分で気がつくしかない。だから待たないといけない。やっぱりプロジェクト学習が私のやり方にあっている。

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Written by masa-ida

12月 2nd, 2009 at 7:36 am

Posted in グローバルIT

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