IDA Session Records

井田 昌之の日々の記録。自己紹介等。

好きな仕事は給料が安い

「好きだからやっている仕事は給料が安い、相手が必要な仕事をやってあげると給料が高くなる」

最近、こういうことを実感し、また説明することを、いくつか経験した。それぞれ異なった文脈で。「好きな仕事を続けたい。しかし今の職場ではそれが難しくなった。そこでどうするか?」多くの転職や職場の問題にかかわって生じる命題である。これと、「お金が要る。だからどんな職業をやるか」あるいは「どの業種はもうかるか?それをやろう」とはしばしば対立する概念となる。売上の絶対額は小さく、その結果、自分の給料も少ない、いくらやっても望みがないように思える、このまま続けるべきなんだろうか?というのもある。

個人のことであれば、結局はその人の職業観、幸福観、そして人生観そのものの課題である気がしている。すくなくとも、その人が何を求め、何に満足するか、というパラメータの位置は大きい。しかし、産業全体の共通した構造のことであったり、その社会の基本的な成り立ちかたの話であったりすると、経済学的視点がウェイトを大きく増すことになる。国と国との間の較差あるいは業種間の「較差」といった課題は、個人のチョイスの問題を超えている。もちろん、かかわるそれぞれの人間が何をしているか、何によって動いているか、ということの集大成が経済だと思っているので、今ある流れを個人が変えられないということを言っているのではない。

実例っぽい話をここに書いておくことはあまりしないが、以前に学部の学生をもっていた時期に、学生から多数聞かれて、とりあえずの判断のために伝えていたことがある。それは、ひとりあたりの売上、という指標である。学生は、この会社とあっちの会社とどっちが成績がいいんでしょう?というのをとりあえず聞くことが多い。面倒なので、年間売り上げをアルバイトも含む社員の数で割って、その値が1000万円以下の企業は論外だ、と言っていた。もちろん、例外もあろうが、100名居て、10億円の売り上げのソフトウェアハウスというのは、1名あたり1000万円の売り上げである。話を単純にするために、平均年齢30歳給料500万が80名居て、平均45歳給料1000万が20名だとする。そうすると給料の支出は6億円になる。労働集約だから給料がコストの中核となるとは言っても、固定経費はかかっているはずだから、それが20%くらいだとして2億円はかかっているとする。ほんとは給料の倍くらいは社員にお金がかかるんじゃないかなぁ、だったらこの会社はどうなんだろう?とかそんな話を入り口にしたことが何度かある。すくなくとも、自分でその会社の体質を数字の上から確かめる気になる入り口にはなっていたはずである。特に学部の学生にはなんのとっかかりもつかめていない者も結構いた。

これが国とか業界とかの話になると話はやっかいだ。好きでやっているから給料は安い、そういう人たちがささえることでもっているんじゃないかなぁ、という業界が日本にも結構ある、あるいは、仕事ってそういうもんで、高給を求めるんではなく、それぞれが自分の天職と感じた仕事をすることがいいんだ、ということもある。ジェフリーサックスの言う貧困のワナということもある。なかなか。

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Written by masa-ida

5月 13th, 2009 at 6:22 am

Posted in 経済

異文化共存の原点

もう50年くらい前の小学生の時代、今振り返ってみるとそのころの影響はやはり大きい。まず小学校の5年生くらいの作文で、将来何になりたいか、というのがあって、外交官になりたい、と書いたのが40歳すぎになったときにわかった。なるほど、形を多少かえてやっているな、と気がついたのが最初。

小学生の2年のときだと思うが、船で外国に渡るという友達が居た。親の出身地に帰るということで、本人は特に喜んでいるのでもなく、複雑な表情だったのを覚えている。北朝鮮が、というよりも今まで慣れた環境をはなれることにとまどっている、そんな感じだったのを覚えている。ともかくも彼は居なくなった。どうしているんだろう?

運動会になると、とても衝撃を受け、かつ毎年楽しみにして面白がっていたことがある。女子のリレーで、ある姉妹がでる。どっちもものすごく速い。それはもう、足が高速に回転して、そして足が長くて、半周くらい遅れてバトンを受けても追いついてしまうと思えるほどになる。4分の1周くらいなら間違いなし。それを応援するのが学校中の楽しみでみんなで声援した。すごいすごいと感嘆した。黒人との混血の子達だった。今どうしてるんだろう?

病気で小学校在校中に亡くなった子もいた。台湾、韓国などから来た友達も複数いた。一人はとても立派な、御殿に住んでいるような感じの家だった。一人は、なんというか今でいうテラスハウスのような長屋に住んでいて、しかし中身は立派な家に住んでいた。あれは、ひょっとして官舎みたいなものじゃぁなかったかと思う。

アメリカ人との混血の男の子の友達。お父さんとお母さんというのがどう考えても似ていなくて歳もとってて、そういわれてみれば不思議な感じだった。しかし、こどもとしてはまったく気にしない。この友達は、高校生くらいのときに軽自動車の免許をとって乗っていた。ある日、トラックにつっこんで死んだという連絡をうけた。その葬儀のときにわかった。お父さんお母さんというのは地域の民生委員の人だった。がーん。

6年間のうち、4年強担任をしてくれた先生には年賀状をかかさなかった。07年の年賀状には返事が来なかった。しばらくして春になって、娘さんからもう亡くなったという連絡が来た。

他にもいろいろな友人が居た。いそがしくしていることにかまけて何も連絡をとっていない。時々申し訳なくも思うが、仕方なし。

少なくともいえることは、異文化の共存というのは私の少年時代の中心であった。とても大きな教育を受けたと思う。

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Written by masa-ida

4月 26th, 2009 at 7:48 pm