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保護された異端児の話:スティーブジョブズ氏を悼んで
私からすればまだまだ若い、ジョブズ氏が死去した。彼の功績は大であり、とても残念である。と同時に、日本でそのような人物が出る余地は今までなかったのかと思う。これに焦点をあてたい。
日本でも自分の夢を実現させ、それを企業化し、大企業へと発展させようという若者は、少なくない、以前もそして今も。同時に、そういう人たちが育つ、あるいは自由に努力を積み重ねられるか、ということを考えると日米の彼我の差がくっきりとでてくる。一人で努力する、あるいは組織の中で努力するのどちらもである。まず、どちらも自分で独立して、自力でなんとかしようと文字通り這い上がるための「環境」としては、そう大きな違いは無いように感じる。特に最近では。一方、「環境」に違いはあるのだ、という説をとるとすると、それも成り立つ。エンジェル、あるいは篤志家が個人の夢をきいて、よしわかった100万ドルだしてあげよう、などということは日本ではほとんど考えられないというべきだ。一方米国ではたまにある。
企業の中に居る人間が、夢を持ったとする。多くの場合、それは、その企業が戦略あるいは方針としてとっていることとは違うわけだから、異端児となる。異端児は摘み取られるか踏みつけられる、日本では特に。そしてデコボコがあるおもしろい人物は次第に組織人間となって丸くなっていく。か、あるいは組織を飛び出すという選択しかなくなる。
組織の成長力を維持する方法として、「保護された異端児」という概念がある、ということは、アメリカの企業経営者、複数から聞いた。また、クリエイティブコモンズを提唱したレシグ教授の講演記録を整理していたら、その言葉が出てきた。企業の創造力を維持するもっとも金のかからない方法は、クリエイティブな発想をする人たちを育てるためにわざわざお金をかける必要はない。ただ、数人のものになりそうな異端児は、その行動の異端性にまぁ文句をいわないで飼っておくことだ、その方が安くつくし、会社のためになる、と、そんな感じの言い方である。これはビジネススクールで何を教育するかということに関係する。組織の戦略とそれに向かっての統率というときに、Collectivism的に全体の利益を目指す時には個人のゲインはたたくと言う方向に走る。と、異端児はそこに住んでいられない。全体最適を考えるときには、一部の優れた発想をする人がもしその時の戦略の遂行に直接貢献しなくともよい、という原則を日本では教えているか?経営者に伝わっているか?
少なくとも、私が受けた印象では20世紀型の日本の経営者は滅私奉公的な発想で、組織の方針の維持に血道をあげていた。出る杭は打たれる、とかそんな言葉もあった。人と異なる意見を言う人の発言は組織的な意思決定の前には無視されたのではなかったか。私自身、20年前、30年前には組織には住めなかったのを思い出す。どう考えても自分の言っていることは役に立つし、やれるはずだ、といってもうまく伝わらない。それで研究の道に入った。それも内容を認めてくれる米国の人達ともっぱら話をするようになった。「保護された異端児」の話をもっとしよう。
ボストンで生まれたFACEBOOKもカリフォルニアに行ってしまった
ワシントンDCで会議があって、そのあと、次の出張地であるボストンへ行った。気分的には「帰った」。空港で、シルバーラインの列に、切符を買って並ぶ。2ドル。ターミナルの外の一番右の端に、Tの看板とともに位置している。ちょうど一台行ってしまったので、10分強待った。先頭から4番目くらい。すぐに長い列ができた。すると、白いポロシャツに白い短パンの中年紳士ががらがらと荷物を引きながら、列の脇をまっすぐ先頭までやってきた。そして私より前の女の人の脇に立った。私の前に並んでいるのは若い女性ばかり。ヨーロッパ系の感じの人もいる。そして、その男は立っている。しかし、その女性とは無関係らしい。声をかけようかどうしようか迷っていた。何かのタイミングで、思わずExcuse meと声をかけてしまった。その男も含めて近くに居る人が一斉にこっちを見た。緊張した空気があった。みんな気にしていたようだ。「みんな並んでいますよ」。一言いった。彼は、「そんなこと心配しているのか。問題ないよ」と強い調子でいう。ちょっと言い方の感じはsnobbyな感じ。私は何も答えず、にこっとだけした。私の直後には若いカップル。男の方は何も言わずしかし鋭い目線を彼になげかける。しかし、まだそこに立っている。見ないようにした。どうするだろうかとは思っていた。しかし、トラブルはいやだしね。バスが来た。運転手が下りて後ろの方を見てどなった。「うしろの方のドアからはいるんじゃないよ、前から順番にね!乗ったらどんどん奥に入って!」すくなくとももう30人くらいは並んでいる。その女性の運転手には迫力があった。ふと見るとその男性は、いつのまにか椅子に座っていた。私が横を通ると、「心配いらないだろ、私はここに座りたかったんだ」と私に声をかけ、一台見送った。私はにこっとだけして乗車した。声はださないことにした。なぜか今でも気になる旅の一コマである。
もう一つ、気になったこと。知り合いのオフィスを訪問した。彼は生粋のボストン人間。「ボストンで生まれたFACEBOOKもカリフォルニアに行ってしまった。今まではこことシリコンバレーは拮抗していた。けれども今は差が付いてる。どうしてだと思う?」私は黙ってうなずいていた。彼は続ける。「せっかくうまれたものもカリフォルニアに行くのは、こっちの企業は、契約で社員を縛る。何かやろうとしてはじめたらそこでずっとやらないといけない。そんなの自由がないよ。だから、いろいろ挑戦できるやつはみんなカリフォルニアに行ってしまう。FACEBOOKが行ったことで何万人もの仕事がボストンから消えた。」なろほど。
別の友人にあった。彼は言う。「ボストンはやっぱりいいね。新しいことを、しっかり着実に生み出す土壌がある。実績もある。一端雇用に心配のない契約になれば、安心して挑戦に没頭できる。」なるほど。
どっちがほんとうなんだろう?おそらくどっちも。
日本はいま30歳代の人たちは10年前に雇用の流動性の掛け声のもとに、多くが有期雇用となった。なおその影響をその世代は受けている。いまその効果はどうだったろうか?