IDA Session Records

井田 昌之の日々の記録。自己紹介等。

Archive for the ‘グローバルIT’ Category

異文化共存の原点

もう50年くらい前の小学生の時代、今振り返ってみるとそのころの影響はやはり大きい。まず小学校の5年生くらいの作文で、将来何になりたいか、というのがあって、外交官になりたい、と書いたのが40歳すぎになったときにわかった。なるほど、形を多少かえてやっているな、と気がついたのが最初。

小学生の2年のときだと思うが、船で外国に渡るという友達が居た。親の出身地に帰るということで、本人は特に喜んでいるのでもなく、複雑な表情だったのを覚えている。北朝鮮が、というよりも今まで慣れた環境をはなれることにとまどっている、そんな感じだったのを覚えている。ともかくも彼は居なくなった。どうしているんだろう?

運動会になると、とても衝撃を受け、かつ毎年楽しみにして面白がっていたことがある。女子のリレーで、ある姉妹がでる。どっちもものすごく速い。それはもう、足が高速に回転して、そして足が長くて、半周くらい遅れてバトンを受けても追いついてしまうと思えるほどになる。4分の1周くらいなら間違いなし。それを応援するのが学校中の楽しみでみんなで声援した。すごいすごいと感嘆した。黒人との混血の子達だった。今どうしてるんだろう?

病気で小学校在校中に亡くなった子もいた。台湾、韓国などから来た友達も複数いた。一人はとても立派な、御殿に住んでいるような感じの家だった。一人は、なんというか今でいうテラスハウスのような長屋に住んでいて、しかし中身は立派な家に住んでいた。あれは、ひょっとして官舎みたいなものじゃぁなかったかと思う。

アメリカ人との混血の男の子の友達。お父さんとお母さんというのがどう考えても似ていなくて歳もとってて、そういわれてみれば不思議な感じだった。しかし、こどもとしてはまったく気にしない。この友達は、高校生くらいのときに軽自動車の免許をとって乗っていた。ある日、トラックにつっこんで死んだという連絡をうけた。その葬儀のときにわかった。お父さんお母さんというのは地域の民生委員の人だった。がーん。

6年間のうち、4年強担任をしてくれた先生には年賀状をかかさなかった。07年の年賀状には返事が来なかった。しばらくして春になって、娘さんからもう亡くなったという連絡が来た。

他にもいろいろな友人が居た。いそがしくしていることにかまけて何も連絡をとっていない。時々申し訳なくも思うが、仕方なし。

少なくともいえることは、異文化の共存というのは私の少年時代の中心であった。とても大きな教育を受けたと思う。

コメントする

Written by masa-ida

4月 26th, 2009 at 7:48 pm

ブラジルにとっての「開発」援助

早いものでもう1年近く前のことになってしまった。いろいろなことが記憶のかなたに飛んでしまうので、ひとつのエピソードを書いておく。まだ他にもいろいろあるので、これを機会にどんな話があったか聞いてもらえるとうれしい。

2008年7月にアルゼンチンとブラジルへ行った。フランクフルト経由で。いろいろな旅の専門家に聞くとこの経由は大正解とのことだが。ともかく、ブラジルへいった。以前から交流のあった2つの大学から様子をみてもらってアドバイスがほしい、ということがあったからである。事前に、日本に、いや日本政府に助けてほしいことがあるが、どうしたらいいか相談したい、といわれていたので、いくつかの方法を示しておいた。また、テーマのまとめ方の話をした。そしてJICAという機関の話もした。

そうしたら、到着の前に、担当の副学長はJICAに電話をかけ、所長と話をしていた。そこで到着後、電話をしてアポをとり、私も行くことになった。どうやってわれわれの計画を説明して、支援してもらうか、ということが課題となった。それで、説明を聞いた。

先方の課題は次のようなことだった。サンパウロにあるこの大学が支援している大学がブラジル全土に10近くある。また、すでに衛星接続するディッシュとその関連装置は大学内に設置してある。これを活かして、他の支援校にも衛星通信の設備を設置して衛星を使った遠隔教育の仕組みをつくりたい。

それで、大学内の関連設備も見学した。立派なスタジオがあり、またブラジル内では最高水準というメディア学科がある。コンピュータセンタもいっぱしのものがあり、学内のインターネットアクセス環境、情報教育環境はしっかりしている。教室の設備がちゃんとしているといったことだけでなく、たとえば、訪問者があった場合に、一時的にアクセス権を、しかもセキュアな方法を用意して与える手段などもしっかりしている。衛星の利用もすでに独自のサービスのために割り当てを受けることが可能な状態にきているという。

プロジェクトの形にまとめる必要があるとアドバイスした。何年でどこまでやって、いくらかかって、どのように運営して、それにもっとも重要なこととして、何のためにどんな効果を期待しているか、どうして支援が必要か、といったことを書いたらと。多少説明はした。「よしわかった、時間がほしい。」それで彼は夕方のスケジュールをキャンセルして翌朝まで時間がほしいといった。翌朝になった。きれいな説明資料ができていた。ディテールもかなりしっかりしていた。ポータブルプロジェクタももってきた。私は、スライドの投影は無理だろうから、それを人数分コピーして持参したらいいとおもうといってあった。JICAにいった。

最初に副学長は、JICAの所長に挨拶をした。そして、最後にはスクールグッズのプレゼントをした。ぜひ支援してほしいと。説明担当者は壁に用意したプロジェクタで投影しながらプロジェクトの概要と依頼内容の説明をした。JICA所長は私にいった。「そうなんです。もうブラジルはいわゆる開発援助の対象でないんですね。独自のグッズのプレゼントまでしてくれる。」

そう、従来の考えのDevelopment Assistanceが「途上国援助」を意味し、基本インフラの整備程度のことを想定しているのであれば、事情は異なっている。ブラジルにとってDevelopment Assistanceつまり開発の援助は先進国に肩をならべ、それを追い越そうとすることで開発を進めている、それを援助してほしいということだ。

ピラシカバからサンパウロへの道、大学がまわしてくれた自動車で行った。一面のサトウキビ畑、そしてアルコール精製工場は戦前からある。乗った車は、高速のインターにくるとその手前で何度もエンジンを止めた。スイッチを手でいじり、再始動。何をしているか聞いた。「燃料効率が違うので、ガスとエタノールを切り替えてる、もちろんガソリンでもこの車は動くけれどね。」

日本が学ぶべきことは山積している。

コメントする

Written by masa-ida

4月 11th, 2009 at 9:43 am

Posted in グローバルIT

Tagged with