IDA Session Records

井田 昌之の日々の記録。自己紹介等。

Archive for the ‘経済’ Category

円高の継続はどうしてなのか

円高が続いている。円高でも困った困った、円安でも困った困った、としか聞こえてこないメディアの論調にがっくりきながら、自分の身近なことからもこのことを考えてみたい。

まず、国際的な収支の中で、貿易収支は悪化しているが、所得収支は堅調に推移して高い、この所得収支の黒字で今は円高がキープされている、ということに注目すべきだ。簡単に言えば外国からの送金が多く、円の需要があるから、今の水準が維持されている。少し違った話のように聞こえるかもしれないが、「加工貿易」を教えられた、ということからはじめよう。私が小さいときには、「日本は資源がない。そこで生きていくには、原材料を輸入し、価値のある製品を作り出し、それを輸出し、それで外貨を稼ぐ。これが日本の歩む道なのだ」と習ってきた。今は、こうしたことはどうもちゃんと教えられていないらしい。この方向がいいのかどうかとかそういう話以前に、こうしたマクロな方針が国内に浸透していない。ばらばらだ。

堅調に継続している所得収支の実態はなんなんだろう?海外に居る日本人がせっせと日本へ送金しているという構図である。どういう場合にそうした活動が、為替レートに影響するまでにおきていることになるのか。

最近、はたと気がつくのは、IT企業の海外進出の多くは、現地の日本企業のITサポートのためであって、現地の市場へそのまま入っていくためではないこと。しかし、これは日本企業の海外への進出の最初のステップでもあること。このステップでは、しかも、現地法人を作ってではなく、海外の支社としてはじまる。そういう現地の支社同志の取引は、すべて本社決済になる。つまり、日本で決済が起こる。この段階では取引自身は日本国内ですべておこる形になる。もちろん、関連するサービス等に関連して現地での取引はある。海外の支社はそこでの独立した経済体ではないから、その現地での取引は、日本とその国との間の財の交換になる。これが進むと、現地法人をつくることになる。現地法人が現地でおこなう商行為はその国の枠内でおこなわれる。本社とのやりとりは2国間の取引になっていく。現地がもうかってくる、そして本社のキャピタルを補うような状況になると、日本への送金が明示的に増えることとなる。というかグループとしての資金移動が生じるようになる。

私は経済・貿易の専門ではないので、上の指摘には誤りや考察不足もあるだろう。しかし、すくなくとも言えることは、海外の日本あるいは日系企業が本社との強いパイプに根ざして活動し、それが成果をあげているのであれば、所得収支は堅調に伸び、減らない。であれば、円高は解消しないし、むしろ安定する。現地企業が親離れをして現地の方針で生きていくのであれば、所得収支にこのことは影響しなくなるし、減るはず。

一方、日本国内に住む人が、円高のメリットを感じないのは、日本の居心地が良くて、日本からでないからだ。また、輸入企業は差益を内部で留保していて、価格を下げていなければ、日本国内の人にはその恩恵はない。

ようするに、日本人が日本を離れて、海外に根をおろして、その地で暮らす、日本に蓄財するのでなく、その地で財を増す、それが多く認められるようにならないかぎり、円高で困った、円安でも困った、といいながらわけわかんないメディアの論調の状況のままであることは続いていく。

 

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Written by masa-ida

12月 14th, 2011 at 10:54 am

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保護された異端児の話:スティーブジョブズ氏を悼んで

私からすればまだまだ若い、ジョブズ氏が死去した。彼の功績は大であり、とても残念である。と同時に、日本でそのような人物が出る余地は今までなかったのかと思う。これに焦点をあてたい。

日本でも自分の夢を実現させ、それを企業化し、大企業へと発展させようという若者は、少なくない、以前もそして今も。同時に、そういう人たちが育つ、あるいは自由に努力を積み重ねられるか、ということを考えると日米の彼我の差がくっきりとでてくる。一人で努力する、あるいは組織の中で努力するのどちらもである。まず、どちらも自分で独立して、自力でなんとかしようと文字通り這い上がるための「環境」としては、そう大きな違いは無いように感じる。特に最近では。一方、「環境」に違いはあるのだ、という説をとるとすると、それも成り立つ。エンジェル、あるいは篤志家が個人の夢をきいて、よしわかった100万ドルだしてあげよう、などということは日本ではほとんど考えられないというべきだ。一方米国ではたまにある。

企業の中に居る人間が、夢を持ったとする。多くの場合、それは、その企業が戦略あるいは方針としてとっていることとは違うわけだから、異端児となる。異端児は摘み取られるか踏みつけられる、日本では特に。そしてデコボコがあるおもしろい人物は次第に組織人間となって丸くなっていく。か、あるいは組織を飛び出すという選択しかなくなる。

組織の成長力を維持する方法として、「保護された異端児」という概念がある、ということは、アメリカの企業経営者、複数から聞いた。また、クリエイティブコモンズを提唱したレシグ教授の講演記録を整理していたら、その言葉が出てきた。企業の創造力を維持するもっとも金のかからない方法は、クリエイティブな発想をする人たちを育てるためにわざわざお金をかける必要はない。ただ、数人のものになりそうな異端児は、その行動の異端性にまぁ文句をいわないで飼っておくことだ、その方が安くつくし、会社のためになる、と、そんな感じの言い方である。これはビジネススクールで何を教育するかということに関係する。組織の戦略とそれに向かっての統率というときに、Collectivism的に全体の利益を目指す時には個人のゲインはたたくと言う方向に走る。と、異端児はそこに住んでいられない。全体最適を考えるときには、一部の優れた発想をする人がもしその時の戦略の遂行に直接貢献しなくともよい、という原則を日本では教えているか?経営者に伝わっているか?

少なくとも、私が受けた印象では20世紀型の日本の経営者は滅私奉公的な発想で、組織の方針の維持に血道をあげていた。出る杭は打たれる、とかそんな言葉もあった。人と異なる意見を言う人の発言は組織的な意思決定の前には無視されたのではなかったか。私自身、20年前、30年前には組織には住めなかったのを思い出す。どう考えても自分の言っていることは役に立つし、やれるはずだ、といってもうまく伝わらない。それで研究の道に入った。それも内容を認めてくれる米国の人達ともっぱら話をするようになった。「保護された異端児」の話をもっとしよう。

 

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Written by masa-ida

10月 11th, 2011 at 7:07 pm

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