IDA Session Records

井田 昌之の日々の記録。自己紹介等。

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ダラスの思い出

11.22 必ず思い出すことがある。90年代の半ばだと思う。ヒューストンがメインでダラスに午後のミーティングで日帰りで出張ということがあった。チャンスだということで、車を飛ばしてまずケネディ大統領暗殺の現場を見に行った。その日のこと。

感想としては、とてもこじんまりした斜面地の庭園、三方がビルに囲まれているという印象。行ってみると思ったより狭い場所。あの狭さは東京でたとえて言えば、そうだなぁ、どこにでもありそうな地域の公園という程度の広さ。それが傾斜している。車は芝生の広場につきあたって、そこで右にまがり、ついで左に曲がる。その先の広場の脇の道で銃弾に倒れる。その道は坂を下っていく方向にある。広場に座ったとすると、傾斜の具合から開放されている方角を見て座ることになる。そう座ったときには右手の道で銃撃があった。そして、陰謀説では、そのさらに右手前方の茂みの中から発砲があったという説がある。

率直な印象として、その場所はプランした狙撃には向いていそうな気がした。車はかならず減速せざるをえない。正面から標的はねらいやすい。多少下り坂だし。ふにおちないのは教科書倉庫ビル。これは結構高いビル。斜め右後ろの高い場所。ここから遠ざかっていく車の人物をねらうのは相当に難しいと感じた。しばしそこで休憩し、パーキングメータの時間が来たのでその場を後にした。

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Written by masa-ida

11月 22nd, 2013 at 3:49 pm

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終戦のエンペラー、そして青山学院

終戦のエンペラーを見た。あの有名な、宇宙人ジョーンズならぬマッカーサー元帥との会談で、片岡孝太郎演じる昭和天皇の覚悟を決めた表明にストレートに胸をうたれた。民を率いるリーダのあり方を示している。そして、なんとか日本をめちゃめちゃにせずに復興させるための多くの人の立場を越えた努力。これらはすべて史実であっただろうとおもう。

原作では、フェラーズと河井道の働きが中心となっている。そして、それがおそらく史実なのだろう。一方、映画では、関谷貞三郎がクローズアップされ、河井道は登場しない。関谷貞三郎の働きもおそらくあったであろうから、この映画のプロデューサである奈良橋陽子が貞三郎の孫であったことをまびいても映画の構図はそう史実を曲げたものともいいえないだろう。

20世紀初頭、多くの有為な若者たちが外国に学んだ。語学、そして文化、そして西洋文明に触れ、さらにキリスト教の精神に触れる。しかし、当時の日本の時の流れは簡単なものではなかった。平和への努力、世界の文明と対話すること・共存すること、軍国主義の靴音の中で、さまざまな主張と行動をすることは容易ではなかっただろう。しかし、この想いの多数の人の存在は、天皇制の存続と一連の政策は、占領と共にやってきたマッカーサー元帥そして一部の政治家の私利とだけに関連させて論じるものではないことをはっきりとさせている。

河井道、恵泉女学園の創立者、は、戦前に日本YWCAを興した創立者の一人。最初の日本人総幹事。この人の年表は、http://www.keisen.jp/gakuen/gaiyo/founder.html にある。1941年春、急遽編成された平和使節団にも加わり、渡米。戦争回避へと努力する。もっと紹介されていい人の一人だと思う。

河井道が創った日本YWCA、その後の会長の一人に関谷綾子がいる。この人は、関谷貞三郎の三男の嫁。関谷綾子自身は森有礼の孫。もっと言えば、中渋谷教会を創立した森明の長女で、森有正の妹。そして、奈良橋陽子へとつながる。

1941年春の平和使節団。阿部義宗を団長とする7名。阿部は青山学院の第6代院長。41年時はメソジストの監督。このとき、日本へのアメリカ大使はジョセフグルー。ボストン生まれ、JPモルガンのいとこ。「長期的な観点にたてば、日本においてわれわれが望みうる最善の道は、立憲君主制の発展である。」と語ったという。グルーは、日米開戦時、最後まで日本に残った大使で、野村大使との交換で帰国。その後創られたグルー基金は米国留学を志す若者のために使われ、私もこれを利用する寸前まで進んだことがある。最後の交換船のときか、青山学院の正門をでる彼を乗せた車を見送る写真を見た。振り返ってみて、戦前の平和への動き、終戦と戦後、それらにかかわる青山学院の歩み、あるいはその中で懸命に生きた人たちの息遣い、いろいろと聞いてはいるが、もう戦後派である私にはこれ以上責任を持って語ることはできない。そして当時を直接体験したひとたちは次々と昇天されていく。歴史の一ページとしての位置になってくる。

振り返ってみれば、おそらく、想定された立憲君主制、これはヨーロッパ等には多く見られる形式、を基とする民主主義への脱皮の過程を、黒白をはっきりさせながら、時には大きな政治のフリップも当然のようにその中で行ってきた大統領制の米国がどのようにからむかという歴史ではなかったか。それは今も続いているように思う。

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Written by masa-ida

8月 1st, 2013 at 10:41 am

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