IDA Session Records

井田 昌之の日々の記録。自己紹介等。

「嫌われる勇気」より -2

「嫌われる勇気」より
岸見一郎、古賀史健 ダイヤモンド社 ISBN978-4-478-02581-9 2013.12  つづき、2回中の2

アドラー心理学は、他者を変えるための心理学ではなく、自分が変わるための心理学。
さまざまな口実を設けて、人生のタスクから回避しようとすることを、「人生の嘘」と呼んだ。
所有の心理学ではなく、使用の心理学。あるものをどう使うかだ。

前提として、他者からの承認を求める要求、承認要求、を否定している。
「あの人」の期待を満たすために生きてはいけない。
「課題の分離」の原則

あらゆる対人関係のトラブルは、他人の課題に土足で踏み込むこと、自分の課題に踏み込まれることから生じる。

「馬を水辺に連れて行くことはできるが、水を飲ませることはできない」という格言がある。
親の願いと子供の課題の分離。親の願いは親の課題。子供の課題まで自分の課題だと思って、抱え込んでいる親がいる。課題の分離ができていないと、それは「介入」になる。

他者がどのような評価を下すかは、他者の課題であって、自分の課題ではない。自分の信じる最善の道を選ぶこと、それだけができること。

承認要求は、誰からも嫌われたくないこと。そしてそこに不自由さが生じる。誰からも嫌われたくないとすると、大きな矛盾が生き方に入り込む。他者の期待を満たすために生きることは、自分に嘘をつき、他者にも嘘をつく人生になる。
これは自己中心的な考え方ではない、他者に介入することこそ自己中心的な発想。
そこで、自由とは何か、自由とは他者から嫌われることである、となる。

他者の評価を気にせず、他者から嫌われることも恐れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないと、本当の自由にはならないことをしる。
幸せになる勇気は、嫌われる勇気も含む。

エピソード
あのとき父に殴られたから父との関係はわるくなった、というのは、シンプルな因果論。「父との関係をよくしたくないから、あのときの記憶を持ち出している」。関係をよくしたくない、修復させたくないという目的がある。私の人生がうまくいっていないのは、あの父のせいだ、という、わたしにとっての「善」。

対人関係のカードは常に自分が握っている。

対人関係のゴールは、共同体感覚
他者を仲間だとみなし、それぞれが自分の居場所を見つける。共同体感覚は、幸福な対人関係を考えるもっとも重要な指標。自己への執着を他者への関心に切り替える。
あなたは世界の中心ではない。自分の人生の主人公であっても、あくまで共同体の一員。所属感は、あくまで自分が共同体に積極的にコミットすることで得られる。

共同体では、横の関係になる。
だから、しかってはいけない、ほめてもいけない。劣等感、優越コンプレックスはどちらも縦の関係から生じる。
ほめられると、人は、自分は能力がないという信念を形成していく。人は、自分が価値があると思えたときだけ勇気を持てる。自分が共同体に有益だと思えたときに、自分の価値を実感できる。

過剰な自意識は自分にブレーキをかける
自己肯定ではなく、自己受容。
他者信頼は、担保をつける信用とは違う。信用されれば信用する、ではなく、自分が他者を無条件に信頼すること。これは道徳的価値観ではなく、共同体を形成する手段である。

仕事の本質は他者への貢献である。ただし、他者貢献は、自己犠牲とは違う。自己を犠牲にはしない。

他者が私に何をしてくれるかではなく、私が他者に何ができるかを考える。
人生は連続する刹那である。ゴールへの途上、原因と結果でもない。過程そのものが結果。
今ここで生を終えたとしても、幸福な人生がある。人生はシンプル、真剣に刹那を生きる。
人生の意味に一般論はない。あなたが自分の人生の意味を決める。

 

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Written by masa-ida

1月 23rd, 2015 at 10:19 am

Posted in 生活

「嫌われる勇気」より-1

「嫌われる勇気」より
岸見一郎、古賀史健 ダイヤモンド社 ISBN978-4-478-02581-9 2013.12

自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって自らを決定するのである。
われわれは、過去の経験にどのような意味をあたえるかによって、自らの生を決定している。人生とは誰かにあたえられるものではなく、自ら選択するものであり、自分がどう活きるかを選ぶのは自分なのです。だからトラウマは存在しない。一般的なカウンセラーは、ただ「あなたが苦しんでいるのは、過去のここに原因がある」と指摘し、だからあなたは悪くないのだと慰めるだけで終わってしまう。
風邪を引いて医者にかかったら、原因を言ってもらって安心するのではない。処方と指針をもらって安心する。
原因論ではなく、目的論をとる。
怒り
自分のいうことを聞かせたかった。その手段として、怒りという感情をねつ造したのです。言葉で説明する手順を面倒に感じ、無抵抗な相手を、より安直な手段で屈服させようとした。その手段として怒りの感情を使った。
怒りとは出し入れ可能な「道具」である。たとえば、怒っている途中でも、電話が来れば引っ込めることができる。怒りは目的を達成するための手段である。
教えない
答えとは、誰かにおしえてもらうものではなく、自らの手で導き出していくべきもの。他者から与えられた答えはしょせん、対症療法にすぎない。

大切なのは、なにがあたえられているかではなく、あたえられたものをどう使うかである。

不幸
いまのあなたが不幸なのは、自らの手で、「不幸であること」を選んだから。不幸の星の下に生まれたからではない。

ギリシャ語の善agathonという言葉には、道徳的な意味合いはない。ただ、「ためになる」という意味。
不幸だというのは、自分がそれが善だと判断したということ。

ライフスタイルが先天的にあたえられたものではなく、自分であらんだものであるのなら、再び自分で選び直すことも可能。
あなたがかわれないのは、自らに対して変わらないという決心を下しているから。
幸せになる勇気を持つ。

赤面症
あなたは赤面症があるおかげで、自分や世の中への不満、うまくいかない人生を納得させることができている。これは赤面症があるせいだ、とね。赤面症がなおったとしても、事態がなにひとつかわらなかったら、また戻してくださいというだろう。

勇気づけの必要性。治さない。

人間の悩みはすべて対人関係の悩みである。

劣等感は主観的な思い込み…自分への価値判断に関わる言葉である。

問題と感じたことについて、自分がどのような意味づけをほどこすか、どのような価値を与えるか、なのだ。
われわれを苦しめる劣等感は、客観的な事実ではなく、主観的な解釈なのだ。自分の。

優越性の追求という普遍的な欲求。これと劣等感は対をなしている。

自慢する人は劣等感を感じている。あたかも自分が優れているかのように振るまい、偽りの優越感に浸る。

人生は他者との競争ではない
誰とも競争することなく、ただ前を向いて歩いて行けばいい
我々は同じではないけれど対等
競争から降りる、つまり負けを認める、のではない。勝ち負けを競い争う場所から身を引くのだ

面罵されたら、その人の隠し持つ目的を考えよ。相手が権力争いを挑んできているのだと考えよ。勝つことによって自らの力を証明したい人がいる。この構図の人は負けてもそれでおわらない。復讐の段階に入る。だから、こういう場合からは引くのがいい。権力争いを挑まれたときには、ぜったいに乗ってはならない。我慢するというのは、あなたがまだ権力争いにとらわれている証拠。

親から虐げられた子供が非行に走る。
フロイト的因果論では、親がこんな育て方をしたから、こんな子供になった、というようなシンプルな原因の説明だけにとどまる。けれども、目的論的な立場では、子供の隠された目的、すなわち「親への復讐」を見逃さない。

非を認めることは負けではない。
攻撃に対して、我慢するという発想は、まだ、権力争いにとらわれている。我慢は怒りをコントロールする発想。そうではなく、怒りという手段によらないで、済む方法を学ぶ。

人は、対人関係の中で、私は正しいのだと思った瞬間から、権力争いに足を踏み入れている。

 

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Written by masa-ida

1月 22nd, 2015 at 12:11 pm

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