IDA Session Records

井田 昌之の日々の記録。自己紹介等。

Archive for the ‘生活’ Category

「嫌われる勇気」より-1

「嫌われる勇気」より
岸見一郎、古賀史健 ダイヤモンド社 ISBN978-4-478-02581-9 2013.12

自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって自らを決定するのである。
われわれは、過去の経験にどのような意味をあたえるかによって、自らの生を決定している。人生とは誰かにあたえられるものではなく、自ら選択するものであり、自分がどう活きるかを選ぶのは自分なのです。だからトラウマは存在しない。一般的なカウンセラーは、ただ「あなたが苦しんでいるのは、過去のここに原因がある」と指摘し、だからあなたは悪くないのだと慰めるだけで終わってしまう。
風邪を引いて医者にかかったら、原因を言ってもらって安心するのではない。処方と指針をもらって安心する。
原因論ではなく、目的論をとる。
怒り
自分のいうことを聞かせたかった。その手段として、怒りという感情をねつ造したのです。言葉で説明する手順を面倒に感じ、無抵抗な相手を、より安直な手段で屈服させようとした。その手段として怒りの感情を使った。
怒りとは出し入れ可能な「道具」である。たとえば、怒っている途中でも、電話が来れば引っ込めることができる。怒りは目的を達成するための手段である。
教えない
答えとは、誰かにおしえてもらうものではなく、自らの手で導き出していくべきもの。他者から与えられた答えはしょせん、対症療法にすぎない。

大切なのは、なにがあたえられているかではなく、あたえられたものをどう使うかである。

不幸
いまのあなたが不幸なのは、自らの手で、「不幸であること」を選んだから。不幸の星の下に生まれたからではない。

ギリシャ語の善agathonという言葉には、道徳的な意味合いはない。ただ、「ためになる」という意味。
不幸だというのは、自分がそれが善だと判断したということ。

ライフスタイルが先天的にあたえられたものではなく、自分であらんだものであるのなら、再び自分で選び直すことも可能。
あなたがかわれないのは、自らに対して変わらないという決心を下しているから。
幸せになる勇気を持つ。

赤面症
あなたは赤面症があるおかげで、自分や世の中への不満、うまくいかない人生を納得させることができている。これは赤面症があるせいだ、とね。赤面症がなおったとしても、事態がなにひとつかわらなかったら、また戻してくださいというだろう。

勇気づけの必要性。治さない。

人間の悩みはすべて対人関係の悩みである。

劣等感は主観的な思い込み…自分への価値判断に関わる言葉である。

問題と感じたことについて、自分がどのような意味づけをほどこすか、どのような価値を与えるか、なのだ。
われわれを苦しめる劣等感は、客観的な事実ではなく、主観的な解釈なのだ。自分の。

優越性の追求という普遍的な欲求。これと劣等感は対をなしている。

自慢する人は劣等感を感じている。あたかも自分が優れているかのように振るまい、偽りの優越感に浸る。

人生は他者との競争ではない
誰とも競争することなく、ただ前を向いて歩いて行けばいい
我々は同じではないけれど対等
競争から降りる、つまり負けを認める、のではない。勝ち負けを競い争う場所から身を引くのだ

面罵されたら、その人の隠し持つ目的を考えよ。相手が権力争いを挑んできているのだと考えよ。勝つことによって自らの力を証明したい人がいる。この構図の人は負けてもそれでおわらない。復讐の段階に入る。だから、こういう場合からは引くのがいい。権力争いを挑まれたときには、ぜったいに乗ってはならない。我慢するというのは、あなたがまだ権力争いにとらわれている証拠。

親から虐げられた子供が非行に走る。
フロイト的因果論では、親がこんな育て方をしたから、こんな子供になった、というようなシンプルな原因の説明だけにとどまる。けれども、目的論的な立場では、子供の隠された目的、すなわち「親への復讐」を見逃さない。

非を認めることは負けではない。
攻撃に対して、我慢するという発想は、まだ、権力争いにとらわれている。我慢は怒りをコントロールする発想。そうではなく、怒りという手段によらないで、済む方法を学ぶ。

人は、対人関係の中で、私は正しいのだと思った瞬間から、権力争いに足を踏み入れている。

 

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Written by masa-ida

1月 22nd, 2015 at 12:11 pm

Posted in 未分類,生活

筆談

今、100年前のファンボイチャウが日本に来た時のことを扱ったドラマをテレビでやっている。日本とベトナムをつなぐ最初と言って良い出来事である。ドンズー運動は、日本に習えということで、多くの有為な青年がその後日本に来た。ベトナムの独立の志士と日本のつながりの発端のできごとでもある。彼が最初に日本に来た時、どうやって会話をしたか。そのシーンがあった。漢字を使った筆談だ。

漢字を使った筆談。自分もやったことがある。それを鮮明に思い出した。10年以上前になる。エクアドル訪問の帰り、キトの空港でそれは起こった。アメリカン航空でのフロリダ・キトの往復切符。それとユナイテッドの成田・フロリダ往復。この組み合わせでエクアドル訪問をした。十分な時間はフロリダであるはず、しかし、キトでは成田便の搭乗券はもらえないし、荷物もいったんフロリダで受け取らなければならない。なので、内心は乗り継げるか、到着は遅れないか、かなり心配していた。

その日、乗る予定のアメリカン航空、出発時間をすぎても出る気配がない。機体はそこに居る。搭乗待合室まで集められたが、それでも出ない。アナウンスもない。まいったなぁ。しばらくしたら、地上係員が私のところにきた。英語はわかるか?大丈夫と返す。ほっとした顔。「実は協力をおねがいしたい。あちらに座っている中国人の老婦人。その荷物を調べなければならない。なんとかその中国人を説得してくれないか?どうやって話をしようとしても、手を横に振るだけで話ができない。」とりあえずやるよ、というしかない。見渡して東洋人は私だけ。老婦人の前にいった。とたんにひらめいた。筆談だ。

私も中国語の文法はわからない。しかしやるだけだ。それで、紙をもらって、「欲 開 鞄」と書き、係員を指さしながら、見せた。いっぱつ。それで彼女はうなずいた。首を縦に振った。係員は彼女をつれていった。しばらくして、係員が来て、助かった、ありがとうとといった。搭乗開始のアナウンスがあった。歩いてターミナルから出て、飛行機のところまでいき、それで乗った。フロリダでは間に合った。

それだけのエピソードである。漢字の威力。

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Written by masa-ida

9月 29th, 2013 at 10:09 pm

Posted in 生活